小池百合子都知事率いる都民ファーストの疾風怒濤の大勝冷めやらぬ中、その国政政党を創設するための政治塾の運営団体が発足した。
その名も「日本ファーストの会」。
川上、王、落合、清原、といった日本の偉大なファーストを結集した会。ではない。
ファースト(最優先)するのが都民から日本になった。日本最優先の政治団体だ。
果たして、私が抱くこの会への強烈な違和感と危惧感は何か。
それは、普遍性への意思の放逐である。
私の師匠である憲法学者の駒村圭吾が自民党改憲草案を批判する文脈で触れた話を思い出した。
ギリシア哲学は、ロゴス(論理・理性)とミュトス(物語)との葛藤を経ている。
当代随一のソフィストであったプロタゴラスは、ソクラテスとの論戦で、「論理で語ろうか、それとも物語的に語ろうか」と前置きしたうえで、「物語的に」語ることを選ぶ。その方がより「面白く」「わかりやすく」直截的に人々の感情に訴えかけられるからだ。
しかしここには落とし穴がある。
物語(ミュトス)に論争や熟議はない。そこにあるのは「共感」の可否である。その物語に共感できなければ、また別の物語が存在するだけである。
しかし、普遍的な論理(ロゴス)には論争がある、熟議がある。つまり、ロゴスは共通言語を持つのだ。
ギリシア哲学はその後ミュトス的なものを退け、ロゴス的な道へと歩みを進める。
「日本ファースト」は、まさに日本だけにしか通用しない内向きな物語を語ろうとしている。自民党改憲草案や安倍政権の姿勢にも共通するが、自分たちの物語に共感するか否かを突き付けてくる。そして、その物語に共感できない人間は「こんな人たち」である。
彼らに共通言語はない。
また、これは、自らの奉ずるものを、他者との価値の衝突や調整におけるトレードオフを無視して「一番!!」と言い切るエクスタシーをくすぐる。これはとても楽だ。自分と違うものを受け入れ対話・熟議し、共生を目指すことには我慢と胆力がいる。立憲主義が想定した「個人」はこれら共生のためのやせ我慢ができるとっても大人な「個人」なのだ。
「ファースト」概念はこれに逆行する。単一的な価値を追求し、それ以外は「セカンド」である。自分たちの「ファースト」以外は二級。立憲主義が要求している個人像からすれば、「ファースト」を標ぼうする個人は、極めて幼稚である。
本来、政党とは公器であり、人々の様々な利害対立を吸い上げるだけでなく、「全国民の代表」の集う器として自由や権利といった普遍的な価値をこの社会の中でどのように制度化するのか、実現するのかを遂行する集団である。
話を前回の道場に飛ばせば、井上達夫先生と枝野幸男議員には、論理や理性といった共通言語があった。共通言語があるからこそ、立場や職業やあらゆる差異を越えて、対話や熟議が可能になるのである。だからこそ道場での井上VS枝野はかくもエキサイティングな議論になったのである。
それぞれがそれぞれの「物語」だけを語り、共感の獲得合戦になってしまえば、そこから議論や熟議は消滅し、共生への企ても消失する。
安倍ファースト、日本ファーストということの標ぼうする価値観は、このような意味で、日本が悪しきガラパゴス化し、社会全体の胆力をシュリンクさせる危険性を内包している。
これは、「アメリカ・ファースト」を掲げた、かの国の幼稚極まりない大統領を思い起こせば、容易に理解できるのではないか。
今こそ、世界的に「ファースト」路線に突っ走る潮流にあって、普遍的価値を語る政治集団に台頭してほしい。そして、それを我慢強く応援し呼応する市民社会を醸成したい。
最後に、敢えて、全方位的に強烈な皮肉を込めて言いたい
「二位じゃだめなんですか?」